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​大意   意訳:青木敏雄   (高畠町郷土資料館)

屋代神社霊顕記

(屋代郷にある神社の霊験あらたかな物語)
 
底本:一本柳 伊藤家文書(高畠町郷土資料館所蔵)

 登場人物

安部大夫平頼良(のちに頼時と改名):奥州・羽州の領主
渡會弥太郎平時宣:安部大夫頼良の配下
渡會弥太郎平安宣:時宣と萩野姫の子、大内蔵殿、弥三郎の父  
萩野姫:厨河左衛門の娘、渡會弥太郎平時宣の妻
岩井戸姫:もとは天女、安宣の妻となる。弥三郎の母、後の弥三郎婆
渡曾弥三郎:安宣と岩井戸御前の子、お家再興のため武者修行に行く。
源頼義:鎮守府将軍。貞任の婚約者を横取りする。
源義家:頼義の子、八幡太郎義家。
安部貞任:安部大夫頼時の嫡子(長男、跡継ぎ)
厨河四朗平保任:安部頼時の四男、厨河左衛門の跡継ぎに入る。     
与板の弥左衛門:親孝行の働き者、弥三郎婆に嫁を貰う、幼名比平
三輪屋久右衛門:大阪の商人、富豪
ヲエツ(於恵津):三輪屋久右衛門の娘、屋三郎婆にさらわれる。
番頭の清右衛門:三輪屋の番頭


 渡會弥三郎先祖由来の事
 天の白帝・赤帝(古代中国で、天地・宇宙・万物を支配する天上の造物主)の存在は、車の両輪のように関わりあい、互いに興廃(勢力を拡大したり衰えたり)しあっている。源氏(白)と平家(赤)の両家も同じように、時の流れの中で興廃をくり返している。
 ここ東北は、陸奥の国と出羽の国の二ヶ国に分かれてしまったが、昔は一国であり、安部大夫頼良が奥州五十四郡、出羽十二郡の六十六郡の領主である。その家臣に渡會弥太郎平時宣といって置賜郡屋代郷に五千貫の領地を預けられ、平潟の城に居住している(今、一本柳村と言う所である)。安部大夫の股肱の臣(信頼できる家臣)である。その妻に厨河左衛門の娘、萩野姫が嫁入りした。そして一人の子を出産した。懐妊して二十ヶ月たって生まれた男子である。
 その子は、成長するにしたがって力量が他を越え、容貌も美麗であった。八歳の時には弓や馬に上達し、十五才の時には日本と中国の書物をすべて理解した。両親の愛を受け、後には主君に仕える立派な軍将になるだろうと喜び、深く愛した。冠礼(成人の儀式)を行うことになり、親類縁者やとくに親しい者を招いた。英雄にあやかろうとして、鳥海前司(前の国司)安頼を烏帽子親(元服儀式の際に加冠を行う者)として吉月吉日を選んで、成人の儀式を厚く執り行い、渡會弥太郎平安宣と改名した。家中の面々にも酒や料理が振る舞われた。家老、用人、物頭(組の長)、平士に至るまで、蓬莱島台(「島台」とは、結納や古式の婚儀、宴の室礼には欠かせないもの。「州浜」をかたどり、左右に曲線の出入をつけた台に足がついたもので、台の上に、松・竹・梅などの木を立てて、景物の造りものなどを添えたもの。)や、給与の額に応じての高価で美しい品物を献上した。領主安部大夫頼良の居城に登城し、巻物や馬具などを頂戴し、そして家督の跡継ぎを命ぜられた。先例の通り行列を正して領地に入った。
 この安宣は、親孝行であった。鶏の鳴き声と共に起き、行水し、衣服を改めて神仏を拝み、夜が明けるのを待って両親の居る館に行き、当番の番人に安否を尋ね、食亊の量や好物と好まざるとを全て尋ねた。そして寝所に行き、眼を覚ますのを待ち、寒いか暑いか、腹痛等が無かったかや、今日食べたい献立は無いかと、こまやかに尋ねたりした。食べたい物があれば調理場に注文し、父母の食べるのを見届けた後、自分の館に帰って食亊についた。一日も怠ることがなかった。親が病気になった時などは、衣冠・束帯などの装束を取らないで、政務の間に何回も見舞いをした。孝の心をしっかりと持っている者は忠の心も深いと言う。人柄、技量ともに、まわりの人間よりも素晴らしかった。
 ある日のこと、城中に時鐘(打って時刻をしらせる鐘)があった。高さが二尺五寸(75㎝)、厚さ三寸(9㎝)もあるだろう。親が病気で鐘の音が騒がしいとおっしゃられたので、自分一人で行き、鐘をはずして置いた。家中の者はこれを見て、とても人間の仕業ではない、これは天狗の仕業だろうと噂し合った。この事を若殿に伺ってみると、親の病気が快気となるまではしばらくの間、鐘を鳴らすのは休めとのこと。主の命令なのでその通りにしておいた。
 大殿の時宣は、数日後、医術が功果あって全快したので、床揚げの祝いの儀式として老臣、物頭、諸士に御酒をくださった。その時、岩瀬角之進という物頭が申し上げるには、「時を知らせる鐘も、数日間差し留めになっていたので、心を痛めておりました。ぜひ、今日は吊るして元の通り時を打つべきでしょう。」と申し上げたので、若殿である十七歳の弥太郎は、「側の者ども、鐘の所に行くぞ。」と言いって鐘撞き堂に行き、鐘の竜頭(吊り下げる輪)を右手で引き起こし、左の手を入れて「少し手伝いせよ。五人して片々を揚げよ」と、側近の者に言い、しばらく離れていた鐘を両手で元のように掛け直した。この時初めて家中の人々が若殿が二人といない力持ちであることを知った。乱世の時は立派な主将となるだろうと称賛した。大殿も大いに喜んだ。家が興隆(勢いを増す)する良い兆しであると、祝いの儀式はさらに盛り上がりを見せた。
 こののち、弥太郎に国を譲って国政を行わせたいと、主君へ隠居の願いを出したところ、安部の大夫も弥太郎が英雄であることをお聞きになったので、すみやかに願いの通りになり、弥太郎を渡曾大内蔵平安宣と改名するよう厳命があり、国政をつかさどることとなった。「孝は百行のもとなり」と昔から言われる通りで、安宣は禄(武士が受け取る給与)を重視し、家を興隆し、腹黒い者を遠ざけ、百姓には年貢を減じて賞を重くし、罪を軽くし、戦に徴兵せず、農業の時を費やさず、貧乏人に恵み、老人を養い、九十より以上は粟二石ずつを与え、二子三子を賞し、百姓扱う役人は正直な人を試して見て、賄賂を貪る者あるいは上の威を借りて下民をしかり罵り、権威を顔に表し、民をゴミの様に思い、百姓に怒りを起こさせる者、上に向けては言葉を飾りこびへつらい、忠と見せて自分の儲けに加増を求め、給与を貪り、下々の金銀をせびり取り、私欲深き者を退け、遠ざけ、隠し目附(隠密)を出し、行いやふるまいを聞き出し、賞罰を明らかにして清直の者をを選んで採用する程に、農民たちは子どものように親しみ、国主を天地や父母ように尊敬し、慕っていたので、犯罪は起きようがなかった。五穀もよく実のったので、貢ぎ物を進んで差し上げる事を願うような誠に穏やかな世の中になった。
 こうして月日はあっという間に流れ、大内蔵は二十一歳になったのだが、まだ妻をもらってはいなかった。
 そのような時に、大殿の時宣は五月中旬より具合が悪くなり、初めは風邪の様子となり病床に伏されたが、次第に病気は重くなり、医者、一族家中の典薬頭(薬師)など、引きもきらず門前に大勢集まって薬の処方を話し合い、手当のやり方を替えて療治したが、次第に病気は重くなり、屋代郷の総社ならば効きめがあるだろうと言って、大屋代(大社神社)に代参者が行って、別当神主・社僧、疾病平癒の命乞いの祈祷を十七日心を込めて祈ったが、効果はなかった。
 「今度は黄泉(よみの国)に行くだろう。お前は国政に一生懸命だったので国家も豊かに治まり、危ない様子はない。このことについては思い残す事はない。しかしながら、お前の力量は他に勝っており、まさに英雄である。これに付けてもよき姫を娶り添わせたいと思っていたが、いまだ見当たらなかった。こればかりが気がかりである。そして、主君を大事にしなさい。主君は日月のごとく敬って忠勤を怠る事が無いようにしなさい。太平の世にいて乱を忘れないこと。もし敵の軍勢が攻めて寄せ来る時は、二心をさしはさまず、三軍一つに心をまとめ、間違った命令には意見を言い、勇者には心を寄せ、智者にはその考えを役立て、愚者にはその死を憐れみ、自分の力量を自慢せずに諸将の功を讃えよ。国を去っては家を忘れ、戦に臨んではその身も忘れ、忠に命を尽くし、名を後代に残し、骸を山野に捨てるは武士としての本望である。主君が立派な指導者では無かったとしても、臣は家来の道を守らないのは武士の本道ではない。。遺言があるべきだが、病が苦しく、本心の言葉ではないので口を閉じる。」と教訓し、その翌日四月二十八日、眠るように死去した。安宣と萩の御前は悲歎の涙を止めることができず、悲しみに沈むばかりであった。老臣・物頭・諸士にいたるまで、悲しみのようすは、たとえようもないものであった。あってはならない事が起きてしまったので、領地の人々に通知をしたところ、老いも若きも、徳を慕ってかなしまない者はいなかった。城の内に仮殿を作り、遺骸を納め、萩の方と安宣は五日間の絶食をして、莚の上に石を枕にして帯をとかずに通夜を行い、葬送の儀式を重く執り行い、宗廟(墓)に葬り、清涼院忠解脱良大居士という諡(戒名)を付けた。

 弥三郎婆出現の事
 それより三年間は酒を飲まず、精進料理を食べ、楽器や歌を断ったので、館の中は何となくものさびしくなってしまった。三年間の喪が明けると側近や用人衆は殿の気を晴らそうと野に狩りを勧めたけれども野に出かけることはなかった。
 ある時、安宣は夢を見た。大きな猫が、首に明るく光る玉を付け、東山より飛んで来た。ひざ元にうずくまり、四方をにらんでいる。眼光すさまじく見えて、夢が覚めた。不思議な夢だった。吉凶どちらかと思い、家来の侍に安達仙伯という医師で、天文地理に詳しく、周易を身に付けている者がいる。いそいで呼び出すと、すぐに登城したので、「昨夜、このような夢を見た。吉か凶か、どうすれば良いか教えてくれ。」と質問したので、仙伯は謹んで筮(易占において使われる50本の竹ひごのようなもの)を手にとり、十八変(易占いで最も古い方法)を取りて、老陽・老陰・少陽・少陰の四象を分けて、しばらく考えたが、「さて不思議な夢だ。乾為天の卦(強力な天からのパワーに包まれています。絶え間ない努力と謙虚さが、大きな幸運を導く鍵となるという卦)である。昔、中国の古代中国の周王朝の史編は、占って子牙(古代中国・周の軍師、後に斉の始祖)を得、編が禹(夏王朝の祖)のために占って皐陶( 帝舜に仕えた賢人。法を制定し司法長官となる)を得た。六龍が天に登ろうとしているが、上の龍に妨げられて登ることができないでいる。猫は鼠賊を退治するもので、陰にいるもの。隠れている者をたいじする。何はさておき東山に行って狩をしなさい。身を清めて、野に出るべし。」と言う。
 時は三月三日、桃花曲水の宴を催して杯を流そうと、お供の人を多数連れ、狩野の装束をして安宣は馬に乗り、乗り替えの駕籠を一挺と、銀の茶瓶、挟箱を持ち、花見の準備なのに狩装束をしていて、弓矢・甲冑・鎗も無い。不審に思うのも当然である。
 東の方に岩井戸と言う高山がある。南東は伊達郡、北東は仙台刈田郡、西は置賜郡、三郡に連なっている。頂上に猫鼻という岩があり、百尋(一尋は約1.8m)に余る長さで、上は平で百もの筵を敷き並べられるほどの岩がある峨々たる(険しくそびえ立つ)大きな山である。雲や霞が峯を離れる事が無い。
 この日は快晴にして風や霞もなかった。ふもとは桜の花が五分咲きで、日なたの桜は爛漫と咲き乱れ、まるで吉野の初瀬の風景のようで、ふもとより一里(約4㎞)程も行くと、簫の笛や琴の音が聞こえてきた。早くも里の者が季節を感じて花見に来たものだろう、と思ってなおなお奥へ踏み入れてみると、谷からではなくて峯より音がするように聞こえた。それで、若侍は木の根や萱の根を押し分けて岩井戸の頂上に登ってみると、龍の剣を使って掘ったと言い伝えられる池があった。どれほどの日照りでも干上がる事がない池であるといわれる。それより西に向かって四、五町(一町は約百九m)も離れた所にある猫鼻の岩の上に、紅色の美しい薄衣の袂、錦の十二単、花の筓をさした数多くの婦人が音楽を演奏していた。昔、唐土(中国)の人が仙人のすみ家に入り、西王母に逢い、わずか半日そこにいただけで七世の孫にも逢えたという話もこのようなことだと思われ、しばし驚いていたのだが、たとえ化け物であっても、真実を見届けなければ怖じ気づいたと同じである。武士の道ではない、と思い、「皆々、供をせよ。」と真っ先に走り出すと、にわかに騒がしい様子になった。一人が天に飛ぶと見えたが、すでに霞に隠れて見えなくなった。ますます化け物の仕業に違いない。
猫鼻の岩に出でてみると、ただ一人の女性が目の前に残り、涙を流してしょんぼりとしていた。その姿は十六才ぐらいに見え、顔形は美しく、芙蓉の花のような眼じり、丹花のような赤く美しい唇、十二単を着て、何とも名も知れない衣を身につけている。唐(中国)織りの物のように見えて、首の飾りは金銀玉でできている。楊貴妃や西施(西施、王昭君・貂蝉・楊貴妃を中国古代四大美女という)も顔を恥ずかしく思う程の美女であった。天人と言われる者だろうか、または、化け物にうたがいなしと思って、「おまえは何者なのだ、先に数十人いると見えたがどうして一人で残ったのか。」、と荒っぽく尋ね聞いたところ、この女が答えて言った。「私は天の赤帝の子供です。下界に落とされて、侍女が天の羽衣を持って帰ってしまいました。私は天に戻る事が許されません。それで悲しくて泣いていました。」と言う。真の勇気を持つ大内蔵(安宣のこと)なので空腹になり、「弁当を開け。」、と従者に申し付けると、毛氈を敷き並べ、酒を呑み、「おまえが持っている琴を演奏しなさい。酒の肴にしよう。」と言う。女は琴をかきよせて泣く泣く、奏婦恋の曲を弾いた。爪音のやさしさ、音声のすずしさ、言うことがないほど素晴らしかった。この時、安達仙伯の夢の占いで、「東山で得る物があるだろう」と言われたことを思い付いた。「おまえは奏婦恋の曲を弾いた。その音声に夫を求め慕う心が有るようだ。私には妻と定めた者がいない。私の妻となって我が家に来ないか。」と言えば、女は答えて言う。「わたしは下界に落とされ、天の羽衣を許されておりません。天上に戻ることは叶いません。あなたに従って参ります。」と言う。ふもとの小道まで従士に背負わせ足早に、馬を待たせているところまで下ると、太陽は西に傾いていたので、帰館しようと婦人を乗り替えの駕篭に乗せ、安宣自身は狩馬にまたがり、桜の花を萩の御前のおみやげにしようと両掛(荷物入れ)にさし、行列を正して帰館した。大内蔵は母君の萩の御前の奥御殿に入られ、夢のお告げによって狩野に出て婦人を見つけて連れ帰った事などを、残らず話されたが、母御前はしばらく思案の様子だった。少しして口を開かれると、「婦人をわが居館に入れなさい。寝食を一つにしてその行いの様子を見てみます。」と言われたので、駕篭を奥御殿へかつぎ入れた。その後、萩の御前は面談をして慈愛の言葉をかけられると、女は、「できの悪い私が宮仕えをゆるしてもらえるのは、とても嬉しいことです。」と答えると、その容貌や立ち振る舞いを見ると、誠に天人に違いないと見えた。毎日毎日、琴を弾かせ、楽器を与えて試してみるに、とても上手な演奏をした。この女は、天が我家に授けてくれたものと祝いの儀式を行った。家老の面々にも案内があり、新たに奥御殿を建てられ、四月八日に婚姻の儀式が執り行なわれ、岩井戸御前と改名して、嫁入りされた。家中の者すべてが万歳を祝す言葉を述べた。これより偕老同穴(老いて同じ墓に入る)や、寵愛をすべて捧げて、連理比翼(常に一緒にいる)という約束をして結ばれた。まもなく懐妊し、この時に誕生した子に弥三郎と名を付けた。後に民間に逃げて隠れ住むことになったのはこの人物である。

  源頼義公御下向の事
 永承六辛卯年(一〇五一)摂津守頼義公は、鎮守府将軍に任命され、奥州に着任した。この発令により、安部大夫平頼良は、奥州の首領であるので、街道の掃除や橋々の掛け替えを国中に厳重に命令し、新たに城を築き、新御殿を建て、玉の甍(屋根瓦)を並べ、御座の間(貴人が着座する部屋)には唐木を使い、最善をつくし、美しいものをそろえた。安部大夫頼良の名と鎮守府将軍の名の、文字は違うが、訓読みは同じである。これによって、畏れ敬いの心をもって改名して、それからは安部大夫平頼時と名のって誠に真面目に仕えられた。貞任・宗任・直任・保任・守任の五人を初めとして数多くの子があった。そして、宿老、長臣の中に男子がいない家には縁組みさせて跡継ぎにさせておいた。保任は厨河左衛門に男子がいなかったので跡継ぎに出され、厨河の四郎保任と名乗った。衣の館の城主がこの人である。衣の館から一里を隔れずに七つの城がある。今、その古城跡の、堀は田地となり、城内は畑となったけれども、城の跡は明らかである。
 ここに津軽・青森に宇堂左馬之佐安方と名乗る一城の地頭がいた。この娘に錦木と言う奥州一国の中で他に類のない美女がいた。王照君や小野小町にも恥ずかしくない程の娘だった。この娘を安部大夫の嫡子(跡継ぎ)貞任の妻に約束し、決定して置いた。まだ歳が若かったので、嫁入りはしなかったが、陸奥一国の首領の嫁と決定した事なので、誰も美女の名を知らない者はいなかった。源頼義はこの美しい女のことを聞き、無理に呼び迎え、自分のものにして寵愛した。このことを知った時、安部大夫平頼時は大いに怒り、「いかに鎮守府将軍だとしても、貞任と婚約していることを知りながら、人の道に外れた行いである。決して許せない。天下の政道を司る身なのに、権威を誇り、色を好み、礼儀を乱している。これ暴虐である。今後は命令を聞くことはない。」と非常に憤慨し、これより以後は命令に従わなかった。参勤などのあいさつや儀礼をやめ、一門の家来の人々、老臣や幕臣、城主の大名・小名に至るまでを呼び集め、戦の作戦会議ばかりであった。「一朝の怒り、其の身を亡ぼす」と言うのは、このようなこと事を言うのである。厳にやってはいけない事である。

 源頼義父子と合戦の事
 これより以後、呉越の隔て(呉と越とが長く敵対していたところから仲が極めて悪いこと)となった。安部大夫平頼時は、出羽置賜郡大荒沢岳(福島県會津との境、大峠付近)の北にあり、四方に峨々たる高山がそびえ、前に大川あって屋城(代)という要害堅固(守りの堅い)の城に立てこもった。
 源頼義公は高い峯の所に対陣し、命令に従わないという罪をただそうとして合戦となった。龍虎の争いは九年間、干戈の止む(戦の音が止む)ことはなかった。その時、渡會大内蔵は抜群の手柄を立てた。
 ある時、八幡太郎義家と安部貞任とが共に戦場で矢を射つくし、名乗りの一本矢だけが残った。これさえも義家が射ようとした時、加茂次郎次義(義家の弟、義綱)がこれを諫めて言うには、「たとえ戦に勝ったとしても、矢種を全て射尽くしてしまっては後の代までの恥辱である。」と止めると、静かに退却を始めた。貞任はこれを見て義家に矢を次々と射掛けたので、敵味方が矢が降る中で組み合い、川の中に落ちてしまった。今この淵を矢淵と言って、高峯にある。
 貞任の追いかける足が速く、(義家は)逃げる所がなくなったが、目の前に大木があった。「我を隠してくれ。」と誓うと、ヌルデの大木が二つに割れ、中が空洞になっていたので、その中に弓を支えにして入ったところ、元のように割れ目が合わさった、日が西山に没し、その日の難をのがれたので、ここを嬉しが沢と言うようになった。ヌルデの木を「軍に勝つ」という意味で、今はカツノ木と言っている。ここで勝軍木と初めて名付けられた。
 しかし、源家の運は強かった。安部太夫平頼時は流れ矢に当たり、その傷が治らず、天喜五丁酉年九月五日、ついに死去した。宗任を囚人にし、三軍をまとめ、鎮守府将軍頼義は上洛(京都に上ること)した。宮中において身分の高い者たちは、宗任が陸奥の国の夷狄(異民族)なので人間ではないように思えたのか、梅の花の名前を尋ねた。宗任はすぐに、
 我が国の梅の花とは見津れども    (私の国の梅の花の様に見えますが)
 大みや人は何と言うらん
   (都の人はこれを何と呼ぶのでしょう)
と和歌を詠んで答えた。田舎の武士にも和歌の道はたしなむべき事である。後の世に名を残すのも和歌を上手に詠んでこそである。

 八幡太郎源義家公、三略六韜伝授し玉う事
 往昔、源頼義公に世継ぎの子がまだ生まれない事を残念に思い、鳩峯にある男山八幡宮へ深く願ったが、そのおかげで男の子が誕生した。名前をを八幡宮の申し子ということで、八幡太郎と言った。「後三年の役」の大将の義家公こそ、この人である。大江の師房郷が宮中の御書所(平安時代、宮中の書物を管理した役所)に勤めていて御所の御文庫への出入りが自由であった。それで、義家に三略六韜(古代の兵法書)を伝授し、夷狄征討(異民族征伐)将軍の任命があり、加えて奥州への着任があった。この三略六韜は、古往、仲哀天皇が三韓征伐の五カ年の間に成果が出なかったので、二度にわたり神皇后宮が唐土(中国)へ巨額の砂金を貢いで軍学の書を三十五家六十部を取り寄せたものである。中国の戦の極意を理解できるものである。日本の諸神社へ供奉(貢ぎ)をするように言われたので、鹿島明神は満珠・旱珠の宝玉を献じた。これが、汐ひる玉・汐満珠である。武内大臣高良朝臣(武内宿禰)は軍師(最高指揮官の指揮を助ける職)であり、官軍が出陣する時、仲哀天皇が播州にて薨御(死去)された。そのお墓は今も播州(兵庫県の一部)にある。后宮が懐妊しながら渡海された。そのために鎧の腹巻が合わせられなかったので、武内大臣は、鎧の脇立てを作って献上した。今に至ってもこれを祝して同じものを作るのが豊前の高良玉垂大明神である。軍船に乗って出船したが、にわかに産気付いてしまったので、后宮は天に誓って、「今、生まれれば海中のもくずとなってしまうでしょう。本当の天皇の御子ならば、三韓を攻めて征服するまで生まれて来ないように。」と祈ると、産気はたちまちに止まって、三歳にして宇佐の地にて誕生された。その時に天より旗が八つ流れて来たと言い伝わる。それで幼名を八幡麿と申される。すなわち、応神天皇がこれである。この戦の成果により、三略六韜に限らず、多くの戦略の書が宮中に納まったと言われている。

 源の義家公、後三年の戦の事
 官軍の総大将として征夷大将軍八幡太郎源義家公は、康平三庚子歳二月卯の日に、奥州、今の出羽国屋代郷安久津村に着陣した。右は峨々たる高山である。屏風を立てた様な八字の形をしていて、左に屋代川という大河がある。実に堅固な素晴らしい陣地である。この所に三軍がしばらく駐留して八幡宮を建立した。四月三日に幡揚げをしたが、対陣している平家は、強敵剛勇なので容易に滅ぼすことができなかった。ややもすれば、官軍の方が危なくなりそうなので、神の御加護が無ければ征伐できないだろうと、陣々の各地に八幡宮を建立した。義家公が御建立した八幡宮は、置賜郡に七カ所、安久津村を始め、成島村・桐原村・奥田村・高山村・州の島・大塚村、のべ七カ所である。三年の間、闘いが止む時はなかった。大塚村に陣の峯と言って、陣場の跡の広い原がある。八ヶ森と言って八幡太郎の陣どりの所がある。義家の馬がつまずいたので「藤絶えろ。」と呪ったと言われ、とても広い原であるけれども一株の藤も見当たらない。将軍の薬籠に扁鵲(古代中国の伝説的な名医)が調合した薬を入れておいたのが、はげしい戦の中で振りまかれて当薬(リンドウ科 センブリ)となったと言い伝えられており、野原中に夥しい数の当薬が生える。陣の峯は当薬が産物である。
 源平の両家が、代わる代わる栄えたり衰えたりするのは天命なのだろう。今は赤帝が衰え、白帝が栄えるという時期に当たるのだろうか。衣の舘は、その前には栗谷川と言う大河がある。俗にくいや川とも言う。後ろは城山が連なり、頂きには霞が晴れた事がないので霞が城とも言う。またとない守りの堅い城である。鎌倉権五郎景政(十六歳の頃、後三年の役に従軍した景正が、右目を射られながらも奮闘した逸話が「奥州後三年記」に残されている)は、これは今までに見たこともないほどの勇士であり、韋駄天(仏法の守護神で、足の速い神)が荒れた時の様に、いかなる堅い守りの陣も破れないことはなかった。楚の項王(西楚の覇王、項羽)の勇ましさを上回ると言われ、敵対する者が無かった。しかし、鳥海弥太郎平安頼、これは奥州で名高き弓の名手であるが、景政に対陣して、馬上より遠距離に矢を景政に射ると、権五郎の右の眼に刺さった。しかし、権五郎はその矢を抜かずに三日三夜追い掛け続け、ついに弥太郎の首の骨を射通した。首を提げて陣中に帰ったところ、この手柄を賞賛しない者は一人もいなかった。今、鎌倉に神様として祭られ、五霊の宮として崇敬されている。
 さて、源平ともに強い軍勢同士なので、決着がつかず、勝ったり敗走したりして三カ年にわたる戦いとなった。それでも、安部軍はついに義家の働きによって責め落とされ、安部貞任は駿馬に鞭打って逃げ落ちる事となった。義家公は、これを見て、
   衣の舘はほころびにけり
と下の句を詠まれたのに対し、貞任は馬を走らせながら、
  かかる世の糸の乱れぬ苦しさに
と上の句を口ずさみながら落ち延びて行った。劣勢の中、厨河四朗平保任は、獅子奮迅(獅子がふるい立って暴れまわるようなこと)の勢いを見せ、官軍の中に残りの三百騎で最後の戦いをしようと横縦十文字に十二度まで馬を走らせ切りかかったが、残りの兵はわずか七、八騎だけになってしまったる。遠くからたくさんの矢が射かけられると、保任に当たった矢が蓑の毛の様であり、従っていた武士も、一人残らず五本十本と矢が刺さってしまった。「これまでなり。」と音もたてずに城中に帰ると、妻子や下女、子供等を刺し殺し、自分は腹を十文字に切り、妻子と首を並べて命を絶った。残りの兵は、その城中に火を付け、敵に首を渡さないようにと火の中に飛び込んで焼死することを選んだ。猛火は炎々と燃え上がり、まるで天をこがすように見えた。
 この時、両陣の死骸は幾千人あったか分からなかった。血は流れて栗谷河が赤く染まって竜田川は紅葉に変わった。死骸は山をなした。その亡き霊を川のあたりに祭り、大蝦夷大権現として祭った。毎年恒例の祭祀を怠る事はなかった。安部貞任は屋代郷にある和田という所に逃げのび、強勇の股肱の下臣が七、八騎、それに残党が三百騎になったが、再び戦が始まり、昼夜区別なく戦い続けた。とうとう、貞任は駿馬の首を切り落とされてしまった。今、ここを馬頭村と言っている。馬の首を納めた小山がある。「ここが私の運命のつきる所か。天は私を亡ぼすなり。」と言って、戦いをやめて、生き残った家臣五人と自刃の地を探した。心静かに死ぬによい場所を見つけると(今は高房明神の境内という)、貞任は兜を脱ぎ捨て、陣太刀に両手を掛けて首を掻き落とし、首を抱えながら死んだという。渡會大内蔵を始め、続いて皆々、自ら首を掻き落として死んだ。官軍が、また近づいて来たので、残らず腹を切り、差し違えて自害したので、官軍が勝った。鯨波(勝鬨)の声を上げて帰陣していった。義家公の戦法は、平場、大林、山沢の陣取りなど、変幻自在であった。正兵や奇兵などの使い方に工夫があり、前にあるかと思えば、忽然と消え失せて後ろにいたり、まったく予想できなかった。前九年の戦では功績がなかったが、後三年の戦いでは勝利を得て、奥州一国を平定することができたのは三略六韜(古代の兵法書。ともに太公望呂尚が書いたとされる)が大江の師房卿より伝授されたからである。その本によって文武両道を身に付けた名将であると讃えられたのである。      
                     
 岩井戸御前と弥三郎、民間に落ちる事
 すでに、平潟の城において大内蔵が討ち死にをし、家中の者は、年老いた者や若い者の男女ばかり残り、十五歳以上、七十過ぎの者までも残らず戦場で討ち死にしてしまった。そこで、萩野御前は、岩井戸御前に向かって、「大内蔵殿の忘れ形見の弥三郎が十三歳になったならば、民間にひそんで身を隠し、無事に守り育て、主君のため、亡き父のため、時を待って旗を揚げ、奥州の首領となりなさい。旧領を取り戻して、亡き先祖の霊を弔いなさい。この戦で勢い盛んな者は軍陣に出て死んでしまったので、残った者は幼稚の子や年老いて用の立たない者ばかりである。一刻も早く、たとえ山林にでも身を隠し、弥三郎を成長させ、旗を揚げ、首領となる気概を後の世代に示しなさい。私は、思うことがあるのでここに止まって城の中をきれいにします。お前たちは、早く逃げなさい。」と言われたので、皆は住み馴れた古城を離れ、泣きながらどこかともなく逃げて行った。戦城に討ち死にした侍の妻たちは、これまで貞節を守ってきたが、、生きていてもどうにかなるものか、あの世で恩に報いましょうと、萩野御前と一緒に、花の盛りの時期の女房たち六十余人が自害して城に火を放つと、屋敷や蔵は赤々と燃え、城中が残らず焼土となってしまった。生き残った残兵たちは山野に隠れ、あるいは田家に隠れ、皆散りぢりに逃げ隠れてしまった。国中の騒乱が静まった後、鎮守府将軍はいたる所に隙間なく地頭(中世の荘園(しょうえん)で、租税徴収・軍役・守護に当たった管理者)を置かれ、国政を平治せられた。中でも安久津八幡はこの戦で一番の陣地であったとして、田地五百町を寄進され、龍頭(竜の形をした前立物)、鍬形(兜の前面につけて威厳を添える前立物)、金の星(鉢を形成する鉄板を接ぎ留める鋲)と五枚しころ(錣:鉢から垂れ下がり後頭部や首周りを保護する部分)が付いた甲と、金実緋綴威の鎧を宮殿に納め、上加茂と下加茂の明神を新たに建て、流鏑馬の神事がある。大社の仮殿を建て、稚児の舞を神楽殿で奏でている。宮社には朱の玉垣や廻廊を取り付けた。そして、今でも五月十五日には管粥(粥を炊くときに竹の筒などを入れておき、その中に入った米粒の量によってその年の豊凶を占うもの)を煮て豊凶を試すこともめでたい行事となっている。二月卯の日、四月三日、八月十五日には昔からのしきたりを続け、今でも祭礼を怠ることはない。別当や神主は、幣の大麻を捧げ、神事を執行している。屋代郷三十三カ所の総鎮守として郷士の館を持っており、そこに、祭り奉行やその他の役人を勤める記録がすべてあるので、これは略す。

 弥三郎、武者修行の事
 岩井戸御前は弥三郎を育てようとして民間の生活に入り、農家に隠れ、粗末な着物を着て、苧を育て、糸を作り、身分の低い女の仕事をし、田畑を耕して生きるための仕事として年月を送っていたが、早くも、弥三郎は十七の歳になった。流石、大内蔵の子供であり、力量は人並みより優れていた。山に出ては木を切りって木刀を作り、剣術を学んだ。野に出でては陣法を学び、水に入っては農耕馬に鞭打って水を修練し、深い山に入って雲の動きを学び、弓や馬の技術も素質が感じられた。春の夜の短かい時にも灯りを照らして長い本を読み、生まれつき剛勇にして柔和な顔つきをしており、仁義(人が踏み行うべき道)を守り、規則に違反せず、大膽にしながら心が細やかな、数少ない優秀な若者だった。そして、旧臣の娘を嫁がせて妻にもらい、一子が誕生した。
 弥三郎が二十歳になった時に、母の岩井戸に向かってこう言った。「今一度残党をかり集め、旗を揚げ、主君や亡き父のために弔い合戦をしたい思いますが、足りないものがあります。八幡太郎義家や大江師房郷に三略六韜が伝授されてからは、前九年、後三年の戦のやり方が抜群になったと聞きました。なにとぞ、武者修行を成し遂げて、この書を奪い取り、家来に戦法を教える将帥になりたいと思います。しばらくの間、時間を下さい。」と願ったので、母は大いに喜び、「われもお前を一刻も早く成長させ、主君や亡父の仇を取りたいと思ってはいましたが、大きな望みなので、一年一年指折り数えて待つ事がとても長く感じられました。お前の妻子のことは少しも不安に思うことはありません。お前の帰るまでは大切に育て、蚊やアブにも刺されないようにします。強い風にも当てません。嫁も貞節を守り、一生懸命に孝を行います。道を極める者は気弱にはなりません。絶対に心残りをしてはなりません。妻子は不自由無く面倒を見ますから、私たちのことを少しも気にかけてはだめです。早く本望をとげ、目出たく帰国しなさい。」といさぎよく話された。そして、先の動乱の時に親を討たれ兄を討たれた旧臣の跡継ぎたち百あまりの家来を集めて酒宴を開いて前途を祝し、皆から送られて武者修行に出かけた。最初に常陸の国を目指した。筑波山は日本の山の初めて開かれた地なので、参詣しようと男体山、女体山へ登り、陰陽の餅を食い、男女の河の源であること一目見て、竜宮より贈られた鐘を拝み、ふもとへ下って筑波権現の朱の玉垣や廻廊の素晴らしさを拝み、宮殿を伏し拝み、それから鹿島三社を目指して出発した。
 広い野に出て、日がくれた中を一里(4㎞)程も行くと、松の木の生い茂っている所でたき火をしている山賊らしき者七、八人に出くわした。長い刀を横に置き、焚火の周りに居たる前に進み出て、「煙草の火をかしてくれ。」と言うと、頭と見える六尺(百八十㎝)あまりの大男が、「旅の者だろう。路銀(旅費)の持ち合わせがあるだろう。」と言う。「我等はそれを借りる者どもだ。断れば衣服までも剥ぎ取るぞ。路銀残らず置いて通れ。」と言う。弥三郎が答えて、「私は見る通りの浪人ではあるが、少々の貯えを持っている。しかし、これをお前達にやっては旅ができなくなる。しかし、ただではすまないだろう。だから、勝負をして決着を付けようじゃないか。立ち上がって勝負しろ。」と言って赤銅作り( 銅に金3~4パーセント、銀約1パーセントを加えた銅合金。紫がかった黒色の美しい色彩を示す)の二尺八寸(約84㎝)の刀を抜いて八双にかまえ(刀を立てて右手側に寄せ、左足を前に出しての構え)たので、若者には似合わない太きな奴である、と賊たちは皆々刀を抜いて戦ったのだが、どうしてかなうものだろうか。賊は虎乱の技や正眼の構えをつくして戦ったが、太刀を打ち落とされ、みね打ちにして半死半生に討たれると、地に平伏して、「なにとぞ一命を御助け下され。そうすれば一生恩は忘れません。」と泣きながら詫びたので、「大望がある身なので、お前達のことは助けよう。武者修行の身なのでお前達の腕前を見たまでだ。」と言うと、皆みなは喜び、初めて命拾いしたような気持ちがして、「お侍様、この山の陰には我々の住居がある。一晩お泊まり下さい。」と言う。どこにも泊まるあてが無かったので、「そうであるなら泊めて貰いましょう。」と皆々を伴い、賊の家に到着した。賊は上座に座らせ、酒や肴を出し、ていねいにもてなしてくれた。、酒宴の途中に弥三郎が尋ねた。「この辺りに、剣術の道場は無いか。」と問いかけると、「鹿島に狩野佐馬之進という名前の、隣国に知れ渡った大名人がいる。」と答えた。「それならば、参上して剣術の腕試しをしたいものだ。」と言うと、「料理も差し上げたく思っても、山奥の家のことなので用意ができません。それではたいへん失礼です。それで。」と言って、首領と思われる男が十両の金をさし出し、「修行中の身であれば、道中での雑用の助けにして下さい。」と言って 金を差出したので、「私には大望がある。旗揚げするときに手紙を出すので、その時に力を貸してくれ。」と言い、「しばらくの間、預かりましょう。」と懐中に納めた。再会を約束して鹿島に向かって出発した。
 太神宮を伏し拝み、小物忌、高天の原・要石・神鎧を拝んだ。神社は古びて、霊々とした神木が森の様である。じつに武士が祈って誓いを立てるべき尊い神様である、と胆に銘じて一七日(七日間)通夜(修行?)し、それから狩野の道場へ尋ねて行くと、会合の日のようで、弟子たちが大勢集まっていた。そこで「田舎の者が、武者修行にきました。御高名の道場と承わり、参上つかまつりました。御面談をお願い申し上げます。」と申し入れるとすぐに弟子が出てきた。案内されて道場へ入ると、高座に師匠、高い位の弟子が左右に並んで座り、門弟は整列して並んでいた。あいさつが終わり、高位の弟子の伊藤兵太夫が立ち、面や小手の防具で堅め、試みの勝負を木刀で立ち合ったが、四分六分の差で弥三郎が負けたので、師匠を始め、門弟までの顔色が和らぎ、安心したように見えた。それから門弟一人一人と対戦したが、いずれも四分六分の差で負けたので、皆々が喜び、とうとう酒を出しての酒宴となってしまった。酒宴がたけなわになったころ師匠も木刀を手に取って太刀合いをしたが、三分七分の差がついて負けてしまった。そこで入門を許されて弟子になり、半年ばかり逗留した。下々の門弟には技術を教えたが、負けることもあり、そのときは特に門弟たちと仲良くなった。師匠も分け隔てなく指道してくれることや、武者修行に来て弟子とに成れた事などが世間にも伝わったので、高名がさらに増し、弟子が大勢押し寄せた。上(道場主)よりの予算増があり、益々繁盛したので、先生も弥三郎のおかげでこう成った思われた。それで、兄弟子たちよりも目をかけてもらえるようになった。永くお世話になったので、師匠に他へ行きたいとおいとまを願ったのだが、「もう一年だけでも道場に残って世話をしてくれ。」と、なおまた留められ、早くも二ヶ年を過ごしたが、諸国の道場へ入っても恥ずかしくないようにと、この道場の秘伝を残らずに伝授してもらうことができた。上方(京都方面)をも一見して修行致したということを強くお願いしたところ、師匠は、衣服・旅装束を与えてくれた。門弟の者たち全員も送別してくれ、銀五文目と三文目寄付してくれ、送別の酒宴を持ち、船にて息栖・香取まで送ってもらい、再会を期して、名残りおしみながら別れた。香取は下総国の第一の宮なので参詣し、それから心謐かに武蔵国を指して登った。
 これより国々の道場々々を尋ねて修行に入ったが、四分六分の差で負ける日が続いていると、五日、十日、あるいは三月、四月と逗留しているうちに、それぞれで餞別のお金を銀一枚二枚と頂いたので、旅費に困る事がなく、国を出る時に持参した金額より多くなった。それに、暑くなれば夏着の着物が施してもらうなど、いつも見苦しくない格好で修行することができた。
 その後、京都に着いて旅宿に泊まり、ひと月も過ぎたころに、この京都の中で勤め口を探したいという望みを話した。その中でも特に大江の師房卿の館に勤めたいと話したところ、ちょうどこの京都に出入りしている人だったので、すぐに大江公に勤めることができた。
大江師房卿は和歌連歌の道を心がける人で、顔立ちの立派な人だったので、よりいっそう念を入れて勤めに励んだ。虫干しの時は書籍も開かれるだろうと心を尽くして奉公した。土用(夏の土用は立秋前の十八日間、旧暦の6月8日頃から)も過ぎたのに虫干しは無かった。七月七日に到って少しの本は干されたけれど、望みの書はまだ見ることができなかった。この本は秘書なので、大内家の御文庫に厳重に納められており、簡単には盗み取ることができないことがわかった。思い切って中国へ渡って手に入れるより外はないと心に決めた。それで人員交代の日まで首尾良く勤めた後、仕事を世話してもらった宿に帰り、肥前の長崎を見に行きたいことを話して別れを告げた。また、一、二年のうちには京都に戻って来ることを約束して出発した。

 弥三郎、三略六韜を得る事
 これより、西国へ行く準備として、また道場を尋ねたずねて修行を行った。いよいよ豊前国に着き、宇佐八幡宮へ参詣して一七日のあいだ参籠(昼も夜もそこに引きこもって神仏に祈願すること)してお願いした。高良玉垂命神社(こうらたまたれのみことじんじゃ)には三七日(二十一日間)籠もり、心より祈り通して願い続けた。
二七日(十四日間)目の夜、少しまどろみかけたころ、白髪の翁が束帯(宮中の正式な服装で)の服装で、鳩の杖をついて忽然と顕れた。「お前の忠孝(君主に対する忠義と親に対する孝行)に励む姿により、望む書物を授けよう。太宰府大林寺に行くべし。」と告げられたと思うと、そのまま夢が覚めた。それからは、ますます信ずる心を強くし、幣(供え物)を捧げて再び拝むと、大宰府めざして急いだ。弥三郎は計画をめぐらしながら大林寺に向かった。
 その時の住職は知識豊かな人で、同じ宿坊には僧、数多くの雲水(各地を巡る修行僧)、行脚に随身する僧などが百人あまりもいる大きな寺だった。その寺へ行き、案内を求めた。「拙者(私)は奥州の者で、武者修行にまわっている者ですが、あさっての十五日は亡き親の年忌(月命日)に当たります。法事の営みをお願いしに参りました。このことをよろしくお取次ぎをお願いします。」と申し入れると、このことを住職に伝えた。すると方丈(住職)が面談してくれた。弥三郎の容姿を見ると、身分の低くない立派な侍だった。住職が申されるには、「仏事供養はわれら僧の仕事です。貴殿は旅の最中とはいえたいへん感心な心をお持ちである。思うようにしなさい。」と申されると、「先ず先ず客寮(客の部屋)へ御案内しなさい。」と役目の僧に申し付け、方丈は退室された。弥三郎は客寮に行き、香奠として金子五両差し上げると、料理と供物(おそなえ)の支度がされてあり、施餓鬼法要の仏事が執り行なわれた。誠に亡き魂が成仏できると思い、おおいに心が落ち着いた。
 これより二、三日逗留(滞在)するうち、同宿のお坊さん達へ餅菓子などを買って与えると、とても仲良くなり、方丈との面会をとりなしてもらうと、さっそく方丈の部屋で面談してくれることになった。世間話等をなされて、「私も若いころ、陸奥の国の松島や塩釜を見学し、象潟を見て、松前で年を越したものだ。」などを語られ、「あなたの武者修行も我等が雲水と同じです。どうか気を遣わずに長く逗留して気を休めなさい。」と心からお話しされるので、本当に故郷に居るような気持ちの中で談話することができた。   
 ある時、住職が申されるには、「武者修行をするのは剣術や兵法を身に着けるためである。千手観音も手足が沢山あっては、かえってじゃまになる。心一つの事である。唯心の浄土、己身の弥陀(極楽浄土も阿弥陀仏も、共に自己の身心のうちに本来持っている性徳であるという意)と言う事も心一つのことである。『三界唯一心、心外無別法』(心を離れて他の存在はない、三界のすべての現象は心によってのみ存在し、また、心のつくり出したものであるということ)と言う。軍の大将にもなろうという立場では軍学であろう。この寺に代々隠してきた孫子・呉子、三略六韜の書物がある。この書を手に入れ理解すれば、国家を治め、戦わずして勝つことができる。これを学びなさい。」と教え諭してもらえることになった。元からこの書を手に入れたくて高良明神の告げによってこの寺に来たので、心から喜んで、「なにとぞ、その書の御伝授をお願いします。」と申し上げた。
 恐縮して居ると、和尚様は博識の人なので、その書を開いて、理論と実践に分けて詳しく、また、ことごとく読み聞かせしてくれた。昼は説明を聞き、夜は灯火の下で書き写し、三年たらずで全てを伝授されたので、いよいよ帰国する事を考えた。「これまで、修行に出て十年あまりが早くも過ぎました。国に残した母も心配です。」と、国に母・妻子ある事を方丈に話し、ひとまず帰郷したいと語ると、「故郷に帰る人を止めるべきではない。」と方丈も「私も老僧なので再会することは難しい。来世で会いましょう。」と涙ながらにまるで自分の国を去るようにして別れた

  弥三郎母の岩井戸、鬼の女と成りて飛行自在する事
 弥三郎の妻は、弥三郎が修行に出た翌年の春正月より労症のように病気になり、発熱が強くて痰を吐き、食事も次第に減り、やせ衰えたので、おさな子は乳を飲めなくなった。それで、疳症(夜泣きをし、消化不良をおこしやすく、腹ばかりふくらんで痩せているようす)を煩らい、腹がふくらんで手足がほそくやせ衰え、熊の胆、薬剤を色々用いたけれども効果がなかった。これを苦にしたのだろうか、妻の病気はいよいよ重くなった。近郷の医者や薬の治療を手厚くほどこしたが、その効果も見えず、翌年四月八日、朝の露のように消えてしまった。隣近所の人たちが集まって葬式をやってくれた。その子も、また、三日も過ぎないうちに夕方の霜のように消えてしまった。その後、弥三郎の母は狂ったようになった。「まったく心残りでくやしいことだ。わたしが預かった妻子を、弥三郎が武者修行終えて帰るまでは守り育て、無事に対面させ、笑顔で親子再会をさせたいと思っていたのに、まったく合わせる顔がない、と一度は歎き、一度は怒り、ついに鬼女の様に成ってしまった。泣きながら愚痴をこぼす姿は目も当てられないほど悲惨なものだった。七日の間断食して水も絶ち、暗く沈んでいた。それに、一夜のうちに髪は恐ろしく乱れ、白苧(カラムシの白い繊維)をかぶったような白髪の姥に変わった。
    往昔、漢の時代のことが書かれた本があった。十五丈(45m)の楼上に竹籠に人を乗せて細い綱で吊り上げて額を書かせていたところ、下に落ちてしまったが、そこには白髪となったその人がいたという。昔の出来事を思えば、こういう出来事はあることなのだろう。
 これより、鬼の女となった岩井戸御前は、悪い行いがますます増え、弥三郎が帰るまで、軍用金を貯めて旗を上げさせようと盗賊の首領となり、先の戦いで生き残って山野に隠れていた家来どもを手先に使い、野や林の茂っている所に昼は身を隠し、夜は人家に遠い所に出て旅人から金や衣服を剥ぎ取り、生血を啜って肉を食っていた。狼を遣うために人の死骸を与えて手馴付け、風を起こし、雲を起こし、思うように飛びまわった。東山・朝日ヶ岳・飯豊山・大荒沢・須溜上山など、または鳥海山・羽黒山・月山・蔵王ヶ岳・下北の恐れ山までも一夜のうちに飛び回り、人をさらって金銀をとり集めた。幸福の者や分限の土蔵を蹴破って千金をさらい取り、生血を吸い、肉を食べる。山人・山姥とはこれらの仲間を言うのだろうか。弥三郎の屋敷は荒れ果てていた。草が生い茂り、藪のような樹木で、日もさす事のない破れ家に、姥が一人で住んでいた。昼は糸つむぎなどの貧しい女の仕事をして、隣り近所の人にそのように見せていた。夜は家の中にはいなかったが、それを知る者はいなかった。死者の骨は座敷の奥に山のようになっていた。超人のような力をもってする事なので、一般の者には分らなかったと言う。
   現在、弥三郎が使った川砥石がある。屋敷は畑になったけれども死骨がたくさん出る、と言い伝えられるとのこと。

 白山権現垂迹(出現)の事 
 その年は、夏にかけて日照りとなり、田植えのしようがなかった。たまたま少しの水が残っていた窪地に稲を植えたけれども、稲の花が咲く頃になって、暴風と大雨で田畑共に一面に海のように水をたたえ、五日も七日も水が引かなかったので、水腐れとなって全く実らなかった。このような年が三年続いて荒天候だったので、田地は茅が畔より生え広がり、萩、犬稗などの草が伸びて荒れ果てた。農夫は食物が乏しくなり、河骨(水草の一種)の根を食料にしたり、あるいは松の皮を餅に搗いたり、山から百合やワラビの根を掘り、紙すきの様にして打ち叩いて、その汁を集めて底にたまった澱を干して粉にして、大豆を入れて粥のように煮て食べることでようやく命をつなぐことができた。しかし、傷寒疫(腸チフス)が風流って、これまで粗末な食亊をした身体なので、十に六、七分ほどは死んでしまった。人々はこれを歎き、市川在家(中世に成立した集落)の者どもは残らず、村長を先に立て、屋代郷の総鎮守である大屋代の宮(二井宿にある大社神社)に行き、断食して一七日お参りを続けた。
 この御社は日本武尊の夷狄征伐(東北征服)の時、神軍の陣中となった。粥を煮た釜を掛けたと言われるケヤキの木が今もある。日本武尊が出雲国の素戔嗚尊を勧請(分霊)した十町四方(1㎞四方)の社地である。古木・樫・杉・栃・榎など、何千年経つのかを知る人もなき古木が森々と生い茂っている。神社の建物建立の時に一株の木も伐らなかったため、霊々として貴い神社となっている。屋代郷で第一の神社である。人々は信心するのに命を惜しまず。心より祈ることに心がけ、五穀豊穣や国家安全を祈りったところ、祈りが通じて、七日目の満願の夜、幻のようなものが現れた。
 それは金の鎧と甲を着け、八千戈を持って、すさまじい顔色をして、身の毛もよだっている。大きくはっきり現れると、「汝等、これより一里(4㎞)下って白子山と言う山がある。その八合目に岩窟がある。ここに白帝のこども白山姫がいる。汝等は白山姫の命を信仰すれば災禍(わざわい)に合うことはない。」と告げると、霞の様に消えてしまった。里の人たちは、感激の涙を流し、信仰の心が益々深くなった。奉幣(神に幣帛(へいはく)をささげること)、大麻(御札)を持って、白子山の岩窟に登り、一七日間籠って祈願し、真心をつくして祈ると、七日目の満願の夜、突然、女性が現われた。その女性は玉の簪を頭に付け、白くすき通る肌に、金繍(美しい衣服)の衣のようなものを着て、「われは白山姫なり。すでに神のお告げがあった。旱魃(日照り)・水腐れの地にお宮を建て、白餅・苧、ヨモギで作った箸を百膳、これらを供えて祭るべし。」と言うと、かき消す様に消えてしまった。神の現れを腹の底から感じ、感動の涙を流しながら里に帰った。
 すぐに宮を建立し、三月二十八日成就した。その夜、白子山より光る物体がこちらに飛んで来て、新しい宮殿に入った。誠に有難いお宮である。白山姫の命がご本尊なので、白山大権現と祭りたてまつることにした。豊作の願い、疱瘡・はしか・腫物が治ることを祈ると、願いがかなわないことがない。霊験あらたかなる事を、とうてい言葉では言いつくせない。
 「神に神体し、正直をもって神体とする。」と言われるが、いつの頃より祭って来たものなのか分からないが、この宮には一尺二寸(36㎝)ばかりの御神体がある。満水の時、一面に海の様になった水に流れてきた。子供たちの手にたわむれて遊び、いつしか、いつもの通りに神殿に帰って鎮座しておられる。お宮の建て替えの時、別当(世話役の寺院)に移したのだが、「枕返し」(布団ごと向きを反対に向けられること)をされて、足を向けることができなかった。誠に不思議な御神体であると、誰もが生き神様のように尊敬している。このご神体が来てから水害や日照りの心配がなくなり、豊作が続き、百姓たちは安心して仕事ができるようになった。

    弥三郎、故郷へ戻る事
 こうして、弥三郎は大林寺を出発した。武者修行を切り上げ、帰路を急いだ。故郷へは錦を着て帰れと言われている。お家再興を期して集結した家来衆にも対面の時は良い姿を見せたいと思い、京都において羽二重(平織りと呼ばれる経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を交互に交差させる織り方で織られた織物)と縮緬(経糸に撚りのない生糸、緯糸に強い撚りをかけた生糸を交互に織り込んだもの)の衣服を作った。道中は馬に乗り、羽織を着て、萌黄・羅紗の陣羽織と緞子の野袴を小風呂敷に包んで肩に両掛けにして中仙道を下り、日光より高原峠を越えて南の山を通り抜けて奥州を目指して下って来た。会津より桧原を通り、米沢の城下の宿に泊まった。そこで弥三郎は考えた。
    昔、漢の時代に戦が始まり、兵士の召集があったので、ある男が若き女房と幼い子供ばかりを残して、命令に応じて七年間戦場で過ごしたが、手柄もなくて家に帰って来た。女は三年間会わないと心変わりすると言うので、夜中になってから様子を見て、その上で家に入ろうと思った。夜もなかばになって家の様子をを伺うと、門の屋根も破れ、屋根裏から月の光が洩れて入ってきている。わたしが留守だったので、こうなってしまったのだなあと思った。門の閂が閉められているので家に入る事ができずに伺っていたが、甲鎧を着け、陣太刀を差し、鉾をついて夜巡りをしている者がいる。そこここと見廻りをし、門の閂を改めて家に入った。これは間違いなく再婚した夫だろうと考えた。七年間も連絡が無かったらこうなってもしかたがないと思ったが、何はどうでも、家の中に入って見ようではないかと思い直し、声を高く「今、主人が帰国したぞ。」と呼んでみると、女房が立って出迎えてくれた。嬉しそうに七年の間の、つらかったこと心や心配だったこと、子供を育て上げたことなどを語る姿に、他の男への心など無いように見えて、ただ一人で暮した事を語る話の中に他人がいるとも思えなかった。「先ほど、鎧甲を着て、見巡りをしていたのは誰か。」と聞くと、女房は笑って答えて言う、「あれは私です。留守だと分るとみくびられ、弱みに付け込まれる事があるので、男の格好をして見回り、七年間、毎晩このようにしてきました。」と言った。それは夫への愛情の深さの表われである事を感心し、それから夫婦仲むつまじく一生を過ごした。これより「案内(問い尋ねること)」と言う文字が始まったと言う。
弥三郎はこの古事(昔の出来事、いわれ)のように、夜になって家の仲の様子を見てから入ろうと思った。それから弥三郎は立派な衣装を身に着け、日が暮れるのを待って宿を出発した。夜中に広い野原にさしかかった。横一里、縦二里余りの野原がある。富士の裾野に似ているので富士野と言った。ここを通っていると松やヒノキの常緑樹が長く伸びて茂っている場所に祠堂が有る。春日大明神を勧請(分霊)した神社である。この木立ちの中に山賊どもがいる。昼は乞食のように見えて食事を作ってこもっている。今はこの神社を俗に盗人神と呼んでいる。それより二、三町ぐらい行くと、豪士岳を源にして和田川より流れ込んでいる川がある。十間(十間は18m)あまりの橋がある。以前は舟で渡ったのだろうか、舟橋と言う村がある。この和田川にかかる橋を俗に追金橋と言う。橋の両脇に山賊どもが火を焼き散して十人ばかりいたが、弥三郎が絹布の衣装を着てさわやかに現れた。大小の刀を十文字に腰に差し、小風呂敷包みを肩に掛けて、堂々と通っていたが、頭と思える身長六尺(180㎝)余りの大男が声を掛けた。「旅のお侍、ここは追い剥ぎの所である。懐の中の金を残らず置いて通れ。」と言うと、弥三郎はにこりと笑い、「これは迷惑千万。貯えの金子(所持金)はつかい切って持ってはいない。酒代ぐらいはあげましょう。」と、紙に包んだ小判を一枚投げだした。「これで通してくれ。」と言えば、「そればかりでは大勢に分ければいくらにもならない。それでは衣服を脱いで通れ。金がなければそうするしかない。」、と言ったので、弥三郎は、「衣服がなくては家に帰れない。どうか許して通してくれ。」と言えば、「曲者、のがすな。」と手下の賊が両袖にかかって来たので、元から大力無双(他にいないほどの怪力の持ち主)の弥三郎で、剣術の名人なので、どうして勝つことなど出来るであろう。川中に賊をつづけて打ち投げ入れた。残りの者たちは一斉に刀を抜いて皆が同時にかかっていくと、二尺八寸(84㎝)の氷の様な刀を抜いて渡り合い、みね討ちで半死半生にたたき伏せ、めざすことがあるのでしばらくの間は命を助けると言えば、賊たちは「これにはかなわない」と思って、散り散りに逃げて消えてしまった。
 それから弥三郎は、また風呂敷を肩に掛け、「たいへんに手間取った。」と言って通ろうとすると、片息に成って倒れていた賊が、よろよろと起き上がり、婆におしえられていた笛を使うのはこの時とばかり、腰より出して吹いたので、狼たちが一匹、二匹と集まりはじめ、十四匹が寄って来た。この中に白い狼が一匹いた。賊が、弥三郎を指さすと、一斉に追いかけて来る。その先に山の神を祭った祠堂がある。この前に漆の大木があった。この所まで来ると、数匹の狼にとり囲まれ、しかたなく漆の木に登ると、狼も次々に登って来たが、わずかに一匹分の長さだけ届かなかった。あとに続いて来た山賊が「弥三郎婆でなければ叶わない。迎えに行って連れて来い。」と言うと、白い狼はすごい速さで婆を呼びに駈けて行った。この時、弥三郎は「弥三郎婆だと?、不思議な事を言うものだ。」と思っていた。しかし、狼が木の周りを離れず、牙をならしていたので、しかたなく木の上にそのままでいた。まもなく、恐ろしい顔で白髪を振り乱し、鬼女のような婆が白い狼を先立ててものすごい速さでやって来た。一足で木に登り、弥三郎をつかんで引き下ろそうと片手を延ばしてつかまえようとした時、待ち受けていた刀を抜き放つと、その刃の鋭さに水も付かずに腕が切り落とされた。血はどっと空を走り、雨の様に散乱した。婆の行方は分からなくなった。その後、狼が一匹も見えなくなたので、木から下りて家を目指して帰ってきた。
 屋敷を見廻すと、すっかり荒れ果て、伸び放題の茅は肩を越していた。屋敷内の道は人が通っているとは見えず。犬の足跡ばかりである。家屋は破れて人住んでいる所のようにはとても見えない。しかし、人のうなり声、それも病気のような声がするので、家の中にたずねて入り、「弥三郎です。今日、只今、帰りました。」と声高にあいさつをすると、寝所(寝床)から母の声がして「さてさて、弥三郎、今お帰りですか。私は、今日、突然に腹痛になり、起きる事ができません。戸は開いているので家の中に入りなさい。」と言うので、火を火縄に移して蝋燭に火を付け、炉に火を燃やした。さすがのあばら屋(崩れそうな家)も昼間の様に明るくなって、寝床に入って病気の具合をたずねると母は、「先ほどからの腹痛なので余りひどい事ではない。しかし、痛みが激しいので、起きる事はできません。お前の妻子は、武者修行に出た翌年の四月八日、母子共に死去してしまいました。親子ともに元気に顔を会わさせたいと思っていましたが、うらめしいことになってしまいました。どんな顔をして会えましょうか。」と涙ながらに話をする。
 弥三郎は「手に入れたいと思っていた書物も全て伝授されて来ました。近いうちに旗を上げ、御家再興(一家を再び立派によみがえらせること)するという大望の成就はもうすぐ目の前です。まずまずお喜び下さい。」と言うと、「それでは、起きましょう。」と言って囲炉裏のそばにすわった。弥三郎が「さて、不思議の事がありました。山の神のお堂の前で鬼の腕を切り取って参りました。」、と腕を投げ出すと、母は左の手に取ってつくづくと見て、「これは我が腕なり。」と言って腕を袖へ入れると、破風(棟についた煙り出しの窓)を破って屋根に飛び上がり、「汝(お前)、よく聞け。嫁と孫が死んでからは、残念な思いが胆(心身の中心)にこたえ、それ以後は鬼女となり、軍用金を取り集めるために追い剥ぎをしては旅人の金を奪いとり、あるいは、様々な所の金持ちから盗み取ってきた。集めた金は長持ち(衣服などを収納するふたのある木箱)の中にある。一万両には足りないが、旗を上げるための資金に使いなさい。さて、私が魔行(悪い行い、魔力)を行うと、あの白山姫が私の行動を時々妨げて、やめさせてくる。それで、この土地にはもう住んでいることができない。これより後は、越後国の弥彦山に住むことにする。お前が旗上げする時にはいくらかの助となろう。これまでである。」と言うと、雲を起こし大風を発生させて飛び去ってしまった。
 さて、その後の弥三郎は、親子の顔を合わすかどうかで別れることは、よくよく悪い因果であると涙にくれていたのだが、親の心づくしのお金を見ようとして納戸(物置部屋)に入って長持を開けて見ると、千両箱が七つ、その他に砂金があり、まとめて八千両余りがあった。夜の明けるを待ち、旅装束のままで村人の家々に寄り、帰ってきたこと知らせた。留守の最中に、妻子が亡くなったことを教えてくれる者、年寄りの母だけだったので屋敷が荒れ果てた事を語る者もいた。中でも、契約(村落内の作業を助け合う組織集団)している者たちが集まって来て家の中を掃除してくれたので飲食の振る舞いをした。なかなか珍しい物を準備して行った。誓約(渡曾家の家臣になった者)のみんなにお金を出して家の建築を頼み、大勢にて工事したので数日もかからずに立ち、造作(壁や戸障子)・敷物(床や御座)まで、あっという間に完成を見た。農業の間は休日に寄り合い、剣術の修行や軍学を教え、陣地の取り方・林の中での戦・山や谷での備え入り・「鳥雲の陣」の立て方・兵の使い方の駆け引きの他、それ以外の事はしなかった。一、二年も過ぎると、城主だった者の末孫や将となるべき武士が、六十有余人集まった。残党を召集して旗上げする事を計画したが、今では全く源氏の世になっていた。源氏は民を恵み(いつくしみ、かわいがり)、賞罰の基準を明らかにし、年貢を少なくし、農家を豊かにした。風雨が順調で災い無く、耕作してよく実り、天災がない。このように幸せな今は、戦いを興すべき時ではない。とても残念だが、時を待たなければならない。生死を共にしようと誓約した仲間の者たちは一年も早く主君と亡父の仇を討ちたいと言うが、好機が来ない時には大望成就は難しい。それで、「戦は能力の高い方が勝つものである」と言って、剣術や陣法ばかりを修行していた。今は白帝の世で、赤帝の衰える時に当たっているのだろうか。
 そんなある時、弥三郎は血痰病(痰に血が混じる病気)を患い、次第に高熱となり、疲れて病の床に付いた。しかし、医師の手当のかいもなく、百日を過ぎないうちに、あっけなく死んでしまった。力を合わせようとしていた武士たちは、戦の大将として頼みにしていた弥三郎を失い、どうすることもできなく、御家再興の大願が空しくなってしまったので、喧嘩のふりをして、村の西の小さい高原に行き、刺し違え合い、六十余人が自害した。これを一つの塚に埋め、「契約壇」と名付けて今も残っている。

  弥三郎姥 与板弥左衛門に女房を授くる事
 弥三郎の母は、ここ越後国弥彦山に住んでいた。狼をつかい、雲を起こし、風を発し、人の骸をさらって山の頂に置き、あるいは山の沢に投げ捨て、夜毎、狼を先立てて歩行していたので、道を行きかうひとの往来が絶えた。人々の苦しむ事は大変なものであった。
 さて、与板という所に父の弥左衛門が早死して母子だけで貧乏暮らしをしている母子がいた。その子供は親の名を継いで弥左衛門と言い、同じ村の中に奉公して母親を養っていた。孝行息子であり、家に帰ると主な一日の仕事の様子を話し、珍しい食事が出ると自分は食べずに母に与え、酒も自分は飲まなくても親には良い酒を求めて切らすことが無かった。人と争うこともない。賭の勝負もせず、寝起きを共にして、親の心に背く事も無かった。冬は敷物をあたため、夏は枕を扇いで穢を取り、気持ちに逆らう事がない。働きは人並み以上で、休日に我家に帰ると屋敷の畑に親の好物を作り、水汲みをし、薪割もして不自由ない様にして面倒を見ていた。主人への勤めを一日も欠かす事がなかった。給料も他の人よりも多く貰っていたけれども、困窮していた。「仁者は富まず」(良い人間は金持ちにはならない)と言うのはこの事だろう。ある時、それまで何ともなかった母が病気になった。近隣の医者の薬を用いたが効き目がなく、たいへん心配していたが、新潟に名医がいると教えられたので、すぐに新潟へ行き、様子を詳しく語り、薬を貰って飛ぶように家に帰り、薬を飲ませると、少し快方に向かった。それで、主人への勤めがおわってから薬を取りに新潟まで行くので戻るのはいつも夜になってからであった。その夜は途中で白髪の七十ぐらいの姥と一緒になり、これこそ弥彦の弥三郎婆なるかと気味悪くなったが、しかたなく顔を青ざめたまま行った。すると婆が言うには、「お前はどこに帰る。」と聞かれたので、「与板に行く者です。」と言った。すると「われも与板の近所の者なので、与板まで一緒に参ろう。」と言う。年寄りだが「我につづけ。」と杖をついて腰をかがめながら足早に歩くのでようやく追い付き、語り語り行った。「この頃、ことのほか、狼が荒れると聞いた。おそろしい事だ。」と言うと、姥が、「われと一緒に歩いて行けば狼に気遣う必要はない。」と言う。なおなお気味悪く思いながら同道した。我が家まで帰り着いたので、姥も分かれて行った。母は、一刻(二時間)も過ぎないうちに帰って来た早さを喜んだ。また、三日程過ぎて新潟へ行き、薬を取っての帰り道で、姥に先日会った所でまた出合い、「与板の若者、今夜も同道しよう。」と言う。「姥様、何の用にて、また、行かれたのか。」と言えば、「新潟に娘をやっているが、銭を貰いに行った。いつも夜になってしまう。」と語りながら与板まで歩き、以前のように家の前で別れた。このようなことが三度続き、姥が男の家に立ち寄ったので茶を出した。「母の病気はいかがか。」と様子を聞き、「われ、おまえに薬を進呈しよう。」と言って練り薬を小茶碗に一つほどくれ、「お前はことのほか、親に孝行な者である。お前に女房を連れて来よう。」、と言う。貧乏で困っている者が、奉公した給金で親一人さえ養うのがやっとなのに、どうして嫁などもらえるだろうか。」と言えば、「予は弥彦の姥なり。お前の親孝行に感動して贈るのだ。心苦しく思うことはない。来月の二十八日の夜、連れて来るので、餅でも搗いて、親類縁者を招いて置きなさい。また、大風が吹くので、くれぐれも騒がないようにしなさい。もし、気が遠くなったらば、その時は、母に呑ませた練り薬の残りを呑ませなさい。」、と言って家を出ると、どこへ行ったか分からなくなった。この薬のにおいはひどいもので、一間(1.8m)離れていてもすごい匂いがした。母親が呑んでみけると、即座に気持ちが良くなり、七日もしないうちに全快した。(これは近江日野の玄三(正野 玄三(しょうの げんぞう)江戸時代中期の近江商人、日野売薬の先駆け。日野薬品工業の遠祖)の感応丸(漢方薬)でも、さらって来たものだろう)まことに親孝行は天地の理にのっとり、鬼神でさえも賞賛するものである。人の体から忠孝を切り離してはならない。敬い、尊ぶべきことの第一番のことである。
 さて、ここ摂津国大阪に三輪屋久右衛門と言って、大阪で一、二番と言われる大金持ちの町人がいた。苗字帯刀を許された、人間としてもすばらしい徳のある富豪である。この娘にヲエツという十六歳になる容顔(顔かたち)うるわしき美麗の娘である。京都の町人墨野倉清右衛門という名の知られた金持ち、これも格式の高い富貴な町人であるが、仲人により婚約が決まっていた。婚礼が二十八日に決まって、舟では心配なので乗り物(駕篭)にて侍女五、六人が付き添い、男女三、四十人のお共が付き、道中が賑わうように飾り立て、嫁入りしたが、男山のふもとへ着いた頃に、愛宕山に一群の黒雲が立ち始めたと思うと大風が激しく吹いて雹交じりの雨が降り、前の人さえも分からなかった。何が起きたか分らず茫然としていると、暴風が吹き荒れて娘が乗った駕篭がいずこともなく吹き飛ばされてしまった。か弱い女どもには死ぬ者もあった。魔力によって起こされたことなので、まもなく晴天にもどったが、半死半生になった者が多くいた。泣き叫んでもどうしようもなく、皆を介抱して大阪へ帰ってきた。越後の国の弥左衛門の家では弥彦の姥の教えの通り、二十八日になったので餅を搗いて一族の者を七、八人呼んで大鉢に五升餅を一重、かたわらに小豆を添えて梅干し七つ、蓬の箸を入れて家屋の棟に捧げ上げて待っていた。日暮れまでは何も起こらなかったが、夜半の頃、大風が吹いて家を飛ばすほどの大嵐になった。庭に大石が落ちた様な音がしたとおもうと、まもなく晴れ渡ったので、外に出て見ると、本当に約束通り、十六歳ぐらいに見える美しい女が美しい衣服を着て倒れていた。苦しそうに肩で息をして命も消えそうに見えたので、家の中に抱いて入れ、食いしばった歯を扇子の元で開いて姥に貰った薬を吹き込むと、だんだんに息を取り戻して気が付いた。「ここは何と言う所ぞ。」と問うので、「越後の国なり。」と言えば、「大風にさらわれた私は命を失っても当然の身です。さて、不思議な縁によって介抱していただき命びろいをしました。」と涙ながらに話すと、これは仏神の御心による引き合わせなのでしょう。」と深く心に感じて弥左衛門と夫婦の契りを結んだ。夫婦は睦まじく老母に仕えることとなった。この事は国中に知れ渡り、「与板の弥左衛門と言う者、美しき女房を弥彦の姥に貰ったそうだ。」と噂が広がった。翌春、毎年大阪に登っている柏崎の船が米を積んで兵庫のの港に着き、北風庄右衛門の宿に泊まったが、船頭の孝蔵と言う者が「越後に不思議な事がある。与板と言う所に弥左衛門幼名比平と言う者いて、弥彦の姥より女房を授けられた。」事などを詳しく語れば、庄右衛門は「大阪の三輪屋久右衛門の娘が男山にてさらわれた。」ということを話した。何にしても不思議な珍事である、と話し会った。三輪屋の使用人が酒米を仕入れに北風の宿に泊まっていてこの話を聞き、急いでこの事を久右衛門に報告した。久右衛門は話しの全てを聞き、「せめて娘の死骸だけでも見付け出し、埋葬してやりたいと探していたが、今までははっきりしたことが分からなかった。万に一つも命が助かっていると言うことは無いだろう。もしかしたらと思うのはたいへん迷う事だけども、安否を見届けたいものだ。」と言うので、重役の番頭である清右衛門が、「越後に下って見届けて来ましょう。」と言ったので、「それではたいへんな仕事であるが行ってくれ。」と申し付けた。太物(綿織物や麻織物)を新潟へ運ぶ船に乗り船問屋に着いた。始めての事だったので荷は少しの量を持参した。注文を受けてみると、来年からはもっと沢山の量を運びたいと思いながら先に船を進ませた。番頭は航路に不案内なので、大きな商店の店店へ、「他にもう一人ふさわしい人を貸して下さい。」とお願いすると、「それはお安い御用です。」と、店という店が、書面を数通書いて、長岡に一條、小千谷、与板、水原、亀田、新発田、村上へ、縞織物を小さく切って、反物に張り付け、諸品のつけばかりをもって案内の者と二人人で廻った。伊夜彦(弥彦)大明神は越後の国の一宮なので、ここに参詣した。案内の者が、「この弥彦山には弥三郎姥と言う鬼婆が住んでいるといわれる。それにつけても不思議なる事がある。与板の比平と言う者、とりわけ親に孝行な者で、弥彦の婆に女房を授けてもらった。それは去年の事である。」と言ったので、「それは珍しい事だ。その所に案内してくれ。」と言えば案内人は、「私もその娘を見たいと思っても、まだ見ていない。よい機会である。」両人一緒に連れ立って与板を目指して出発した。その家を尋ねて見ると、まことに貧乏な家に見えて、埴生の住居(床も畳もない土のままの粗末な住居)なり。案内の者は新潟の縞織物売りであるが、「茶を一つ下され、休みたいのでちょっとお家を御貸し下さい。」と言って中に入った。母と娘だけがいたのだが、きっとこの娘だろうと考えた。つぎはぎの衣服を着ているが、顔形がうるわしい美婦であるなあ、と見とれていると、「さあさあ、ここへどうぞ。」と、華茣蓙を敷いて、「一番茶を上げましょう。」、と炉の火を強め、茶釜を掛けて湯を沸かした。親に孝慈ある人間は他人にも愛情格別に接することができるものだ。「もう一人のお客様も入ってください。」と言われて、大阪の番頭、「失礼ながら、ごめんください。」と家の中に入ってその女性をつくづく見て、「お前は於恵津様では無いか。」と言えば、「あなたは清右衛門ではないですか。」と、突然のことで何も言えず、涙ばかり流していたが、少ししてから、ここにさらわれ来て命拾いした事を語ると、清右衛門、「ご両親の悲しみは限りなく、心配しておられましたが、兵庫において柏崎の船頭の話を聞き、千に一つもという気持ちで見届けだけは、と思ってここまで下ってきました。」と詳しく語り、喜こびのほどは言うばかりもなかった。清右衛門が「弥左衛門様に御目に掛かりたい。」と述べると、夫に迎えを遣わしたので、弥左衛門は急いで家に帰った。その姿もつぎはぎの膝までのものを着ていたが、上品な顔立ちをしていた。天の徳をいただいた者はその人柄に自然とその器量が備わるものであろうか。比平と清右衛門は対面してこれまでのことを残らず語り合った。そして、清右衛門が於恵津に向かって申したことは、「お前様は国元に御帰り遊ばされて当然ですよ。」と言うと於恵津は、「私と夫との縁は神仏の守り助けです。貧しさや幸福も天神の定めと思っています。ここで一生を過ごそうと思います。しかし、どうか一度は両親に逢いたいと思います。」と言われたので、清右衛門は懐の中より金子二百両を取り出し、「まずはこの金で身の回りを不自由ない様にして下さい。その後、反物を売ったお金を残らず送りますので、屋敷を建る様に御心掛下さい。」と言った。番頭は新潟で商売した数千両の金を出して、すべてこの者の差し図で家を建てた。土蔵・文庫を作り、建設はすべて完成した。弥左衛門は夢を見ているような気持ちであった。母親に仕える下女や下働きの女を雇い、親類の者に管理を頼んで家を守らせて、弥左衛門夫婦と番頭は駕籠に乗り、合わせて二十余人の旅行姿で、大阪を目指して登って行った。大阪に対しては、番頭が与板に向かった後、今まで連絡は一回も届いていなかった。三周忌が巡ってきたので親類が集まり、法事を執り行っていた。番頭は船便で書状を送ったけれども、届かなかった。書状は道の途中で商商売の用件と見られ、上り下りの相場を見たくて開封したのだろう。この頃はまだ、嶋屋、京屋等と言う飛脚はなかったと見える。
 番頭の清右衛門は、大津より大阪まで駈け抜けようと夜通し早駕籠で急いだ。大阪に到着すると、親類たちが集まる法事の日だった。、主人の久右衛門親子へ対面してこれまでのことを詳しく語った。於恵津様夫婦が共に大津まで同道して来たこと、自分は夜通し急いで、迎えの者を出そうと帰ってきたこと語ると、両親の喜びは言葉にできないほどであった。家中の下々の者に至るまで、突然に笑いが出てきて、喜ぶ事は限りなかった。親類は、われもわれもと迎えに出た。法事の料理は、精進料理に引き替えて魚鳥の料理に変わった。ここで拍子が抜けたのはお寺の僧や諸寺院の方々であった。せっかく取りそろえた花や仏壇、飾り立てた供物等だが、いまいましいと思い、がらがらと引き帰したので布施ももらえず、丸い頭をかくばかりで、まったく手持ち無沙汰の様子である。祝いの座敷に居る用は無いので、帰りのあいさつもせずに早々と自分の寺に鼠が逃げる様に帰ったことは前代未聞の事である。遠くを見ている見張りの者の近付いてきたという報告があり、門の前まで駕籠に乗って到着した。弥左衛門夫婦は歩みよって行くと、案内の者がいて、玄関より入られた。於恵津は女子どもの案内で中の玄関口より入った。初めてお会いします。」と上段の上座に招き入れられた。於恵津は両親に対面し、嬉しさにも涙が先立つ。言葉もなおさら出なかった。両親は今日まで死去したと思っていたのに、娘に三年後にまた会えたので、生き返ったようで、これはなかなか無いことである。中国にもこの日本にも聞き伝えの無い事である。夢とも現実とも分からないように悦びは限りない。
 さて、久右衛門は座敷に弥左衛門を呼んで面談し、親子兄弟親類の名乗りの盃をして酒を汲みかわした。三国一の祝い儀式とはこの事を言うのだと、七日七晩続けて祝いの儀式を行ったのは自然なことである。親類縁者への振る舞いが続き、何もない日がなかったので、思わず半年が過ぎていた。国の母も、どうなっているのか心配している筈だろうと帰国を願い出ると、番頭の清右衛門に申し付け、すべて不自由がない様に取り計らうようにと申し付けられたので、お金を数万両と家財の品をとりそろえ、船二艘に乗せて送った。弥左衛門夫婦は駕籠で越後国与板まで、お供をたくさん連れて送られた。これ以後、大阪屋弥左衛門と改名し、町家の内では弥左衛門と名乗り、隠居して与板の領主の老中職を勤め、八百石を頂いて三輪比平という名で代々続いている。
 これより、大阪屋は益々繁盛し、弥彦の弥三郎姥の神通なり、と弥左衛門は尊敬し、伊夜彦子大明神の境内に宮殿を建立して、
      ○ 妙陀羅天
と祭り奉っている。不生不滅の神霊である。神として祭ってからは人民に悪事をなす事はなくなったという。
  供物は白餅の脇に煮小豆を添え、梅干しを置き、蓬の箸を備え上  げて祭りなさいという。
奥州、今は羽州置賜郡に源義家公の陣地、安部貞任の古城・旧跡すべて今もある。たくさんある中の一つをあげると、屋代郷一本柳に渡會弥三郎屋敷の古跡が残っている。今は畑になり、そのかたわら宮殿がある。
     ○ 妙陀羅天
と神の名前を拝み奉っている。長い年月が経って壊れたので、、新たに再建した。助けを仰ぐ神は、人が敬うことによってさらに神威を増し、人は神の徳によって運を手に入れる、と貞永式目に出ていて、衰えることが無いとある。誠に尊敬すべきことの第一である。これによって豊作で円満とる。国家泰平・豊饒を祈り、大君の御代に万歳を唱えたてまつる。
 そもそも、この妙陀羅天とししたてまつる神は、永遠の神霊にして不思議なことが起きることが今も続いている。長生きを祈る、咳止めを祈る、俗には尻シヤフキと言う。縁遠い男女はこの神を祈りなさい。または恋の成就を祈ると奇特(奇跡)がおきる。これは人皆が知っていることである。
               屋代神社霊顕記 大尾(おわり) 
 

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